東京地方裁判所 平成10年(ワ)23258号 判決
原告 松崎久子
右訴訟代理人弁護士 川島仟太郎
被告 今村助夫
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
一 被告は原告に対し、別紙物件目録(一)記載の建物を明渡せ。
二 被告は原告に対し、平成一〇年二月二六日以降、右明渡済みに至るまで一か月金一一万七〇〇〇円の割合による金員を支払え。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
四 仮執行宣言
第二事案の概要
本件は、建物を賃貸している原告が、賃借人である被告に対し、自己使用の必要性等の正当事由に基づく更新拒絶及び解約申入れを主張して、賃貸借契約の終了に基づく建物の明渡等を請求している事案である。
第三争いのない事実
一 当事者
1 原告は、現在、東京都文京区の区立中学校の音楽教諭をしている者であり、夫の訴外松崎慧は、自宅を本店所在地とする株式会社マルワ地質測量(以下「本件測量会社」という。)の代表取締役をつとめている。
原告には、長男和彦(昭和五七年六月一五日生)と長女陽子(昭和六四年一月二日生)の二子がある。
2 被告は、肩書地に所在する店舗(以下「長崎店」という。)と、別紙物件目録(一)記載の建物(以下「本件店舗」という。)において、「クリーニング今村」の名称でクリーニング店を経営している者である。
二 本件店舗
本件店舗は、別紙物件目録(一)記載の木造亜鉛メッキ鋼板葺二階建居宅(以下「本件建物」という。)の一階部分である。
原告は、昭和四九年九月一八日、本件建物とその底地を売買により取得し、旧姓である東久子名義での所有権移転登記をした。
本件建物は、丁字路の角地に位置しており、本件建物に向かって右隣に、本件同様の二階建建物があり、この建物は被告が所有している(以下「被告所有建物という。)。そして、被告所有建物のさらに右隣にも二階建建物があり、こちらは被告の長男である訴外今村達也が所有している(以下「達他所有建物」という。)。
三 賃貸借契約
1 原告は、被告に対し、昭和五八年二月二六日、本件店舗を、クリーニング業営業の目的で、五年間の賃貸借契約期間で賃貸した(以下「本件賃貸借契約」という。)。
2 本件賃貸借契約は、昭和六三年二月及び平成五年二月に更新され、更新後の契約は左記のとおりとなった。
記
(1) 賃貸物件 本件店舗全部(二六・四平米=八坪)
(2) 賃料 一か月金一一万七〇〇〇円
翌月分を当月末日払い
(3) 敷金 金二四万円
(4) 契約期間 平成五年二月二六日ないし平成一〇年二月二五日
(5) 使用目的 クリーニング業の営業
(6) 店舗または造作の模様替えの必要が生じた場合には、あらかじめ貸主の書面による許可を得て行うこと。
四 更新拒絶及び解約の申入れ
原告は被告に対し、平成一〇年三月三一日付内容証明郵便をもって、本件賃貸借契約の更新拒絶、同年二月二六日以降の本件店舗使用に対する異議及び正当事由に基づく解約の申入れの各意思表示を行い、右書面(甲第七号証の一)は同年四月一日に被告に配達された(同号証の二)。
第四当事者の主張
一 原告の主張
1 正当事由
(一) 自己使用の必要
原告は昭和一四年七月生まれで、平成一一年七月に満六〇歳に達し、地方公務員を定年退職する。
そこで原告は、退職後の生活設計として、近所の子供たちに対するピアノ教室等、音楽教室を開催する計画であり、そのために本件店舗を教室に使用することを計画している。
すなわち、定年後は、転職をするか、なお五年間地方公務員(ただし嘱託職員)として働くことが考えられ、原告は、嘱託職員となることを予定しているところ、嘱託職員となった場合の東京都教育委員会における勤務条件(給与及び出勤日)は概ね次のとおりである。
<1>報酬額 教員は第一種報酬額として月額金二〇万二〇〇〇円。
ただし、所得税、社会保険等を控除した手取額は約一五万円で、賞与はない。
<2>勤務日 一か月あたり約一七日ないし一八日、一週四日間勤務
また、原告ら夫婦には現在、長男和彦一六歳、長女陽子九歳の二子があり、これから教育費のかかる年代を迎え、親として収入を減らすわけにはいかない。
そこで原告としては、定年後、嘱託職員になるとともに、本件店舗でピアノ教室を開設し、家計を維持しなければならない必要性がある。
(二) 原告の夫による使用の必要
原告の夫である訴外松崎慧(以下「慧」という。)が経営する本件測量会社は、平成六年三月四日に、慧がそれまで勤めていた測量会社から独立したことに伴って設立したものであり、現在はとりあえず自宅を本店所在地として営業しているが、自宅は狭く、測量器具などは全部収納できないため、一部を社員の自宅に収納せざるを得ない実情である。
そこで原告(本件測量会社の取締役に就任している。)は、本件建物の二階部分を本件測量会社の事務所として使用する必要がある。
(三) 被告側の事情
(1) 本件店舗の明渡による営業への影響
被告は、現在、本件店舗及び被告所有建物においてクリーニング業を営んでいるが、達也所有建物は店舗として使用していない。したがって、被告が本件店舗を明け渡したとしても、本件店舗での営業を達也所有建物に移すことで、これまでと同様の営業を継続することが可能であり、顧客との関係でも影響は全くない。
(2) 被告による本件店舗への無断改装
被告はこれまで何回か本件店舗の改装を行っているが、本件賃貸借契約における合意(書面による事前承諾を要する)にもかかわらず、被告は事前の承諾を得ずに改装を行った。
2 被告との信頼関係の喪失
被告は、昭和五八年の本件店舗賃借の当時から、原告が女性であるためか、種々の強引な対応を示した。
例えば、一回目の更新時期(昭和六三年)において、原告がそれとなく更新拒否の意向を示したところ、被告は、「今はまともなクリーニング業をしているが、俺は元暴力団に入っていた。」「俺は絶対にこの店を出ないぞ。一生居座るぞ。」などと脅かすことが度々あった。
また、被告所有建物についても、その取得経緯について原告の母親は、当初賃借していたところ、被告が家主の明渡要求に応ぜず、家主死亡後も明渡要求に応じなかったことから、とうとう安く買いたたいて購入したという話を聞いており、このような事情から原告は、本件店舗も被告に取られるのではないか、一生返されないのではないか、という恐怖感に近いものを感じている。
さらに、更新の際に契約期間が五年間とされたのは、被告の強行な主張によるものであり、賃料値上げについても、被告の言い値にしたがって決められ、なおかつ、被告の強い要求により、五年間は賃料改定しない旨の特約まで合意させられた。
このため、原告は、被告に対し、強い不信感を持っている。
3 更新拒絶の申入れ
原告は、被告に対し、平成九年八月以前より、平成一〇年二月二五日の契約期間満了の際には、自己使用の必要があるので契約更新はできないので、本件店舗の明渡を求める旨の申入れを行っていた。
4 立退料の提供
原告は、被告の立退に対し、正当事由の補完的金銭給付として、金七八万六六九二円を支払う用意がある。
5 まとめ
よって原告は被告に対し、主位的に契約期間の更新拒絶による本件賃貸借契約の終了に基づき、予備的に正当事由に基づく解約申入れによる本件賃貸借契約の終了に基づき、本件店舗の明渡と、期間満了の日の翌日である平成一〇年二月二六日から右明渡済に至るまで、一か月あたり金一一万七〇〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払を求める。
二 被告の主張
1 賃料の供託
被告は原告に対し、平成一〇年四月分以降の賃料を供託している。
2 被告側の事情
クリーニング業の経営に際しては、受付店舗だけではなく、顧客の衣類の収納場所、洗い、仕上げ、包装等の各種の機械設備の場所、作業場等、多種の場所が必要であり、しかもこれらを切り離すことは仕事の効率性、合理性の低下につながる。
3 原告の主張に対する認否及び反論
(一) 本件測量会社による使用の必要について
本件建物の二階を事務所として使用することは、本件店舗を明け渡さなくても可能である。
(二) 本件賃貸借契約に関する交渉について
被告が原告と接触したのは平成一〇年二月が最初であり、それまで契約に関する交渉は、原告の母親である訴外東督子が行っていた。
また、被告が同人に対して、元暴力団に入っていたなどといった発言をした事実はないし、被告は、一八歳のころから、大田区内でクリーニング業を営んでいた兄の元で働き、その後独立したものであって、暴力団に属していたという事実自体も存在しない。
さらに、被告所有建物は、家主が死亡する前に、話し合いにより取得したものである。
(三) ピアノ教室について
本件店舗の近所には三階建ての大きなビルのピアノ教室もあり、原告が自己使用の必要性とするピアノ教室の開設は、明渡請求の口実としか思えず、必要に迫られた事情ではない。
(四) 達也所有建物の使用について
達也所有建物は、被告の長男である訴外松崎達也の所有物件であり、現在は同人が住居として使用している。したがって、被告が自由に使用することはできない。
第五当裁判所の判断
一 原告による自己使用の必要性
まず、原告は、本件建物の二階部分を本件測量会社の事務所として使用する必要がある旨を主張するが、同部分は被告が賃借しているわけではないから、右の主張に係る事情は、本件店舗の使用の必要性に該当するものとはいえない。
次に、原告は、本件店舗を使用する必要性として、現在の職業である、中学校の教諭を定年により退職した後、嘱託の職員として働くかたわら、本件店舗においてピアノ教室を開いて収入を得る必要がある旨を主張し、本人尋問においても、右主張に沿った事情を供述している。
そして、原告が本人尋問において特に強調しているのは、原告の子供らが、原告の定年時点で長男一七歳、長女一〇歳と未だ幼く、むしろ定年後から子供たちの教育費等の支出が大きくなるため、それなりの収入を確保し得る生活基盤を築きたい、という点であり、右事情は十分に理解できるものということができる。
しかしながら、定年後の生活基盤整備のために本件建物の利用がどうしても必要だとする原告の主張は、やや具体性・切実性に欠けるものと評価せざるを得ない。
まず、原告の夫は本件測量会社の代表取締役として稼働しているのであるから、当然一定の収入を得ており、今後においても、原告とともに生計を支えていくものと思われるが、原告の夫の収入状況については何ら主張立証がない。むしろ、原告の供述によれば、現在は学生下宿として賃貸し、下宿代を生活費として原告の母親に交付している、本件建物の二階部分(本件店舗の上階部分)について、今後は本件測量会社の事務所として使用することが決定している旨を供述しており、業務の拡張による収益の増大を見込んでいることが窺われるところである。
また、原告自身の収入についても、年金等の公的給付が見込まれるべきところ、その額や支給予定時期に関する具体的な主張立証はない。
さらに、原告が本件店舗において開設を予定しているピアノ教室についても、当初はピアノ教室の開設のみを主張していたところ、本人尋問においては学習塾をも併設する旨を供述しており、教室あるいは学習塾の開設に要する当初費用や、経営に伴う諸経費、月謝の設定や生徒数の予想など、教室ないし学習塾の開設に必要と思われる事項の検討結果が何ら示されていないことをも併せ考慮すると、この点に関する原告の計画を具体的なものということはできない。
したがって、定年後の生活基盤を築きたいとする原告の要望はそれ自体としては理解できるものの、そのためには本件店舗の明渡を受けることが必要であるという点については、これを基礎づける切実な経済事情や具体的な計画が存在しているとまで認めることは困難といわざるを得ない。
二 被告側の事情
他方、被告は、昭和五八年に本件店舗を賃借した後、一貫してクリーニング業を営んでおり、同営業が被告の生計の基礎となっていることは明らかである。
また、甲第五号証、第一二号証、乙第四号証、第五号証(以上各枝番号を含む)及び被告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、被告は、長崎店と、本件店舗及び被告所有建物からなる小竹町の店舗の、大別して二店舗でクリーニング業を営んでいること、長崎店においては水洗い洗濯物とセキユ系ドライ洗濯物を(したがって、同店には、水洗い洗濯機、セキユ系ドライ機ほかの各種機械が設置されている。)、小竹町の店舗においてはセキユ系以外のドライ洗濯物を取扱っていること、小竹町の店舗においては、本件店舗を受付及び引渡しの窓口として使用し、そのための受付カウンターや包装機などを設置していること、他方被告所有建物については、一階を、本件店舗で受け付けた衣類にドライクリーニングを施すための場所として使用し、そのためにドライ機や乾燥機、ドライ物プレス機などの、かなり重量のある機械を設置していること、同建物の二階については、仕上品の保管場所等として使用していることの各事実が認められるのであり、被告のクリーニング営業は、各店舗ないし建物がそれぞれの役割を果たし、有機的に関連することで、全体として顧客の多様な需要に対応する仕組みになっているものと評価することができる。
この点について原告は、本件店舗の営業を達也所有建物に移転させれば営業の支障はない旨を主張するが、達他所有建物は、被告の長男とはいえ、第三者の所有物であり、被告が使用できることを当然の前提と考えることはできない。また、本件店舗が丁字路の角地に位置しているのに対し、達也所有建物が角から三件目の建物であることを考慮すると、ことに新規顧客の獲得という点に照らし、これまでと全く同様の営業ができるとは考えにくい。
また、原告は、被告所有建物のみでの営業も可能である旨を主張するが、受付及び引渡し業務を二階で行うことはできないから、被告所有建物のみで営業する場合には、現在一階にある機械類をすべて二階に移動させなければならないが、相当の重量があると思われるこれら機械を、木造である被告所有建物の二階にすべて設置することには、構造上ないし安全上の不安を感じざるを得ず、現実的な選択とはいい難い。また、単に空間の減少だけを捉えたとしても、現在仕上がり品の保管場所として利用している被告所有建物の二階部分が全く利用できなくなるのであるから、営業に生すべき支障は大きいと考えるべきである。
したがって、本件店舗は、被告の生計を支えるクリーニング営業の中にあって、同営業に有機的に組込まれた必須の役割を果たしており、この意味で、被告による本件店舗の使用の必要性は極めて大きいというべきである。
三 総合的評価
以上のとおり、本件店舗については、被告による使用の必要性が極めて大きいのに対し、原告による使用の必要性については、これを基礎づける事情は必ずしも具体的で切実なものとは認め難い。
ことに、両者の経済的基盤における本件店舗の位置づけという点から考えると、被告はクリーニング営業を唯一の生計基盤としており、既に述べた事情に鑑みれば、本件店舗が使用できなくなった場合には、その営業形態に相当の変更を迫られるものと認められるのに対し、原告には、ともに生計を支える夫が存在しているほか、定年後も嘱託職員として稼働することで収入を確保することができ、年金等を受給し、さらには、被告への賃貸を継続した場合には、本件店舗の賃料を受領することができるのであるから、被告の経済基盤に占める本件店舗の役割の重要性は、原告のそれを大きく上回るものと考えざるを得ない。
したがって、双方による使用の必要性を比較した場合、原告による使用の必要性が、被告による使用の必要性を上回るものと認めることはできず、この点について、原告による更新拒絶ないし解約申入れに正当事由があると認めることはできない。
四 その余の事情
原告は、自己使用の必要性以外に、被告による本件店舗への無断改装の事実を主張するが、この点に関する具体的な主張立証はないし、これまで原告が被告に対して改装に異議をとなえたとの事情も窺われないから、原告の主張を前提としても、これを正当事由の一部をなす事情とまで評価することはできない。
次に、原告は、被告が、契約交渉において、かつて暴力団に所属していたことを示唆して原告ないし原告の母親を脅した旨を主張するが、これを裏付ける証拠は、原告の母親である東督子の供述のみであり、当初の原告の主張では一回目の更新(昭和六三年)の際に原告に対して右の発言があったとしているのに対し、同人の供述では二回目の更新(平成五年)の際に同人に対して右の発言があったとされていることなどの事情をも考慮すると、同人の供述をそのまま採用することはできず、被告が右のような発言を行ったとの事実を認めることはできない。
また、原告は、被告が被告所有建物を強引に購入したと聞いているとの事情を主張するが、右は風聞を主張するに過ぎず、明渡を求めるための根拠足り得ない。
さらに、原告は、契約更新の際に、契約期間の設定や賃料値上げについて被告が強硬な姿勢を示した旨を主張するが、契約交渉において自分の言い分を主張することは当然のことであるし、実際には賃料の値上げがなされている点については当事者間に争いのないところであるから、たとえ原告の主張を前提としても、これを明渡を求めるための正当事由の一部と評価することはできない。
五 まとめ
以上の検討によれば、原告による更新拒絶ないし解約申入に正当事由があると認めることはできない。なお、原告は正当事由の補完事由として立退料の提供を主張しているが、前記の諸事情に鑑みれば、この点を考慮してもなお、原告に正当事由があると判断することはできない。
したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求には理由がない。
第六結語
以上より、原告の請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 石井俊和)
物件目録(一)
一、所在 練馬区小竹町一丁目 二番地八
家屋番号 二番八の二
種類 居宅
構造 木造亜鉛メッキ鋼板葺 二階建
床面積 一階 二五・六五平方メートル
二階 二五・六五平方メートル
のうち、一階部分全部
物件目録(二)
一、所在 練馬区小竹町一丁目 二番地九
家屋番号 二番九の二
種類 居宅
構造 木造亜鉛メッキ鋼板葺 二階建
床面積 一階 二一・二一平方メートル
二階 二一・二一平方メートル
二、所在 練馬区小竹町一丁目 二番地一〇
家屋番号 二番一〇の二
種類 居宅
構造 木造亜鉛メッキ鋼板葺 二階建
床面積 一階 二一・二一平方メートル
二階 二一・二一平方メートル